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アメリカ・ミシシッピ州コロンバス生まれ。本名は、トーマス・ラニア・ウィリアムズ(Thomas Lanier Williams)といい、通称は、本作の語り手と同じく「トム」。ペンネームの「テネシー」は、学生時代に、その南部訛りから付けられた愛称が由来。もともとはテネシー州の名門であったというウィリアムズ家だったが、曾祖父の代に没落。父親コーネリアスは、靴販売のセールスマンとして生計を立てていた。裕福な南部の牧師の娘として生まれた母エドウィナは社交的な性格であったが、結婚後、夫が職業柄不在がちだったため、幼い3人の子供たち(2歳上の姉ローズ、“トム”、7歳下の弟デイキン)と共に、コロンバスの実家に身を寄せる。この時期にジフテリアに罹ったトムは、ほぼ1年の闘病生活を経験。その内向的な性格が育まれたというが、このコロンバス時代を人生で最も幸せだった時期、と後に書き記している。12歳のとき、父の栄転で一家は本作の舞台であるセントルイスに移住。南部での明るく穏やかな生活から、中西部の都会暮らしへの環境の激変は、父母の不仲や父親との確執も相まって、益々トムを自己に閉じこもらせ、その鬱積したエネルギーを文筆へと向かわせた。1929年、ミズーリ大学ジャーナリズム学科に進学するが、折からの大不況により1932年に中退。父と同じ製靴会社に就職し、健康を害し退職するまでの3年間を過ごす。ここでの閉塞感に満ちた年月で、社会のシステムや労働者階級の過酷な現実を否応なしに体験することとなり、本作の「トム」の境遇のみならず、後の作品群に強く反映されていることは言うまでもない。その後、1936年にワシントン大学に進み演劇活動に熱中するが中退。その後、3つ目の大学であるアイオワ大学に編入し執筆に没頭するが、その時期に、父親の決断で、姉ローズがロボトミー手術を受けさせられ廃人同様となったことを後で知り、生涯、その悔恨の思いを背負い続けることとなった。1938年にようやく大学を卒業するが、定職にはつかず、多くの一幕劇、詩、短編小説を書きながら放浪生活を続け、その間に何度か暮らしたニュー・オーリンズも彼の作品の舞台として多く描かれている。彼の作品が初めてプロの劇団に上演されたのは、1940年初演『天使たちのたたかい』(これは後に『地獄のオルフェ』として改作)で失敗作と言われたが、ハリウッドでシナリオライターをしていた時代に書いた『ガラスの動物園』が1944年にシカゴで試演されると一気に注目を集め、1945年にブロードウェイに進出。1947年発表『欲望という名の電車』、1955年発表『やけたトタン屋根の上の猫』で2度のピュリッツァー賞に輝き、アメリカ現代演劇を代表する作家としての名声を手中に収めた。成功後、姉ローズを最高級の療養施設に移し、生涯、その面倒を見続けたという。
その他の主な作品には、『バラの刺青』、『去年の夏突然に』、『イグアナの夜』、『ロング・グッドバイ』などがあり、映画化された作品も多い。 |
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