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1885年(明治18)、東京・麹町生まれ(現在の千代田区一番町あたり)。公卿の家系である武者小路家に子爵・武者小路実世の第8子として生まれる。皇族や華族、有力資産家など特権階級の子弟の教育機関であった学習院初等科、中等学科、高等学科で学び、1906年(明治39)、東京帝國大学に入学するが翌年中退。その後、学習院中等学科から の同級生・志賀直哉、正親町公和(おおぎまちきんかず)・木下利玄(としはる)と文学研究会《十四日会》を結成し、回覧誌『望野』を創刊。この活動が発展し、1910年(明治43)、志賀直哉、有島武郎らと共に『白樺』を創刊した。誌名にちなんで「白樺派」と呼ばれたこの芸術思潮は、学習院=特権階級育ちの若者たちの、良くも悪くも"お坊ちゃま育ち"の自由な空気をまとい、ありのままの自己を肯定する視点と平明な口語体文章で語る作風は、当時の文壇にも新鮮さをもって受け容れられたという。以後、実篤は、理想主義・人道主義・自我尊重を理念とする白樺派の思想的支柱として文学活動を展開した。同時に、美術評論や西洋美術の紹介にも力を注ぎ、日本最初の西洋美術館の創設を提唱するなど、日本の美術界にも大きな影響を与えた。
また、芸術活動の他、1918(大正7)には、「新しき村」の創設を提唱。一時期、自ら宮崎県日向に移り住み、農作業な ど共同作業の中で自己を磨き、理想社会の実現を目指すための実践活動にも取り組んだ。雑誌『白樺』は、1923年 (大正12)の関東大震災を機にその役目を終えたが、約60年に及ぶ実篤の芸術活動は、文学のみならず、演劇、美術、思想と幅広い分野に渡っている。 その著作数は小説のほか戯曲、詩、随筆など6300篇以上に及び、小説では『お目出たき人』(1911)、『世間知らず』(1912)、『友情』(1919)、『愛と死』(1939)、『真理先生』(1949)、戯曲では本作『その妹』(1915)、『愛欲』(1926)、『人間万歳』(1922)等が代表作として名高い。また、40歳頃から絵筆をとり始め、その簡潔で独特の親しみをもつ書画は、彼の人間賛美の思想の集大成であったとも言える。 |
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