1886年(明治19)、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区)生まれ。翌年、住職であった父の転任に伴い、一家で隣村の渋民村宝徳寺に移住。盛岡尋常中学時代在学中より、後の言語学者・金田一京助らと親交を結び、与謝野鉄幹・晶子らの活動に傾倒する。16歳で中学退学後すぐに文学を志し上京。与謝野夫妻を頼るが半年も経たずして一旦帰郷。17歳で初めて"啄木"の号で『明星』に長詩を発表し注目を集める。1905年(明治38)、処女詩集『あこがれ』を刊行。しかし、父が宗費を使い込んだことから宝徳寺を罷免されると、同年結婚した初恋の女性・節子と両親らの暮らしを背負いこむことになり、故郷・渋民村小学校の代用教員となる。しかし、文学の道を諦めきれず心機一転を図り北海道へ。代用教員や地方新聞社に転々と勤務の後、1908年(明治41)、金田一を頼り単身上京。数々の小説を執筆するが文壇に認められることなく、もがき苦しむ心情を短歌にぶつけることとなった。1909年(明治42)、雑誌『スパル』を創刊し発行名義人となるも生活はままならず、校正係として東京朝日新聞社に就職。厳しい暮らしの中で家族を呼び寄せ、1910年(明治43)年末に第一歌集『一握の砂』を刊行。第二歌集『悲しき玩具』は友人・若山牧水らの尽力で刊行に漕ぎ着けたが、その完成を本人は見ることなく1912年(明治45)26歳で病没。この戯曲は、家族との同居から啄木死去までの3年間を描いているが、母カツは啄木よりも1ヶ月早く肺結核で他界。その翌年、妻・節子も肺結核で死去。その後、長女・京子は24歳で世を去り、啄木の死後誕生した次女・房江も京子の死から1週間後に19歳で亡くなった。石川家の人々のその後の運命を思うと、啄木の死後に高い評価を得た歌の数々も、より切ない哀しさを帯びてくる。