ナチス占領下の1944年5月27日、フランス・パリの「テアトル・ドゥ・ヴィユ・コロンビエ」にて初演。(ちなみにノルマンディー上陸作戦は同年6月6日、パリ解放は8月25日である)実存主義を象徴する戯曲。原題のフランス語「HUIS」は、もともと「扉・戸口」の意味。CLOSは「閉ざされた、閉まった」の意で、HUIS CLOSは直訳では「閉じた扉」となる。これはフランスの法律用語では、「非公開審理」「傍聴禁止」という意味で使われている。
パリ初演は大反響を呼び、これをアメリカの小説家・翻訳家・作曲家ポール・ボウルズが英語に翻案。
1946年11月~12月には米国ブロードウェイ・ビルトモア劇場で初演され、「これぞ現代演劇。必ず観るべき作品」と評価された。この舞台の演出は、「マルタの鷹」「黄金」など骨太でハードボイルドタッチの映画作品で有名なジョン・ヒューストンが手掛けた。この縁で、1958年には、ジョン・ヒューストンがサルトルに映画脚本を依頼。心理学者フロイトの若き日を描いた「フロイト」を提供するが、様々な軋轢の後、サルトルは自分の名のクレジットを辞退したと言われている。
ジャン=ポール・サルトル Jean Paul Sartre (1905-1980)
パリ生まれ。2歳のとき父を亡くし、ブルジョア知識階級である母方のドイツ系フランス人の祖父に養育される。パリの名門高等学校(リセ)アンリ4世校を卒業。1929年に1級教員資格アグレガシオンに首席で合格。このときの次席がシモーヌ・ド・ボーヴォアールであり、同年「契約結婚」を結び、その関係は終生続いた。
合格後、各地の高等学校(リセ)の教師となり哲学を教えながら、その間1933~34年にかけてベルリンに留学。フッサールやハイデガーを学び、意識構造の現象学的解明に努めた。
その後、第2次世界大戦に召集され、ドイツ軍の捕虜となるが、偽の障害者証明書で脱出し、パリに戻ったという。
実存主義を唱えて、小説「嘔吐」「壁」、戯曲「出口なし」「汚れた手」などを発表。近代人の不安と虚無を描いた。
評論にも「存在と無」「実存主義とヒューマニズム」「ボードレール」等がある。
その活動は多方面にわたり、その人生観や文学観は戦後の人の心をとらえて注目された。マルクス主義哲学を批判するが、やがて共産党の強力な支持者となり、みずからも政治活動に積極的に参加。1964年ノーベル文学賞を贈られたが辞退した。